仁寺洞の路地

2013年02月19日 15:22

朝鮮王朝時代、仁寺洞(インサドン)は漢城部寛仁坊大寺洞という名前だった。「大きな寺」円覚寺があったためである。宮廷に近く、李栗谷(イ・ユルゴク)をはじめ両班階級の官吏たちが暮らし、大院君の自宅である雲峴宮もあった所だ。仁寺洞という名前は、実は日本植民地時代、日本人が寛仁坊と大寺洞から1文字ずつ取って付けた。権力を握った人たちが没落して、邸宅は細かく分かれ、小さな改良韓国式家屋に変わっていったのだ。両班の家の高価な品々も路上にあふれ出し、骨董品店や古書店が繁盛している。先日17日の夜、仁寺洞で火事が起きて、日本人1名も軽傷を負った。場所は仁寺洞文化通りから少し離れた鍾路タワーの裏にある仁寺洞3通りの飲食店街だった。旧大韓帝国末、閔泳煥(ミン・ヨンハン)が自決した場所、ハナツアービルの裏、鍾路に斜めに抜ける道沿いである。古い街ゆえに、車1台がようやく通り抜けられるほどの道で、消火活動に相当苦労して、被害が大きくなったそうだ。